「これ、ほっといて」と言っておいたのに放置されていたことがあった。大阪では『捨てる』事を『ほる』と言うが、関西では無い人には当然『放置』の意味に解釈するのだろう。人の理解、というものは『育ってきた環境』『言葉』に影響を受けるものと思う。人の言葉が理解出来無ければ相手の意思を汲むことなど到底無理だろう。
「出来れば協力してもらえると助かるのですが」「んー、『情けは人の為ならず』と言うからなぁ…」「…そうですね」今、そうですね、と言った彼は、言葉の真意を汲むことが出来たのだろうか? 「アイツみたいに俺は出来ないからね」ってアイツは出来るのか出来ないのか? とか、「かかってこいや!」ってぶら下がって行かねばならんのか? とか、「来る前に電話くれ」って行く前に電話を買ってやらねばならんのか、電話代は俺持ちなのか? とか、ってそれはねーだろ? 俺は。
解釈の幅があるということはすなわち理解を得られているかどうかすらあやふやにしてしまう。好意が好意として伝わらず、時には悪意にとられることさえもある。それはやむえぬ事ではあるが、恐ろしい事は『誤解したままになる事』だろう。嫌われたと思ったり、憎んだり傷付いたり。人の誤解は哀しみを生む。哀しみばかりが繰り返す。
『想い』は想うだけじゃ伝わらない。そんなもの。人はそんなに便利じゃない。『想い』を形にして、言葉に乗せて、そうやって伝えていかねばならない。
人はきっと分かり合える。きっと分かり合える。それは難しい事。たった少しの言葉の不足で。たった一言間違えただけで。しかしきっと分かり合える。たった少しの努力があれば。
著者:香助総支配人 マルマル関西【カスケが斬る!】